雑記:post-truth(ポスト・トゥルース)について

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"post-truth"を生んだ新しい世代

 

オックスフォード英語辞典が毎年選出する「今年の単語」で、2016年に選出された"post-truth"に先日1年遅れて出会った。「客観的な事実が世論形成にあまり力を持たず、むしろ感情や個人的信条への訴えかけの影響が大きい、という事態を指す(2016/12/6日本経済新聞夕刊より)」とのことで、同じく政治的背景を持つ"alternative fact(こちらはややジョーク的なニュアンス)"とともに世界中に爆散したことばのようだ。

これはアツい議論を呼びそうなトピックだぞ!と思いちょっとエキサイトしたのだが、調べてみると政治のフィールド以外であまりホットな記事を見つけられなかった。こういうタネは違う土壌に植えてこそヘンな芽が出て面白いのに。

 

こうした「factよりopnionの時代」への移行を心理学的に読むなら、自己の多元化を背景に置くのがベタかなと思う。使うSNSによってキャラを演じ分けるとかそういうことだ。なんせ様々な場面に応じた自分を用意することでストレスをなくしていくという生存戦略であるが、こうしてわざわざ言語化するのも時代遅れな気さえする。

「葛藤」「解離」などと称されるこの新たな在り方が世界的なものなのか、日本でだけ生まれているのかは正直わからない。けど感覚的にはわかるのだ。この時代を生きているから。・・・・・・っていう姿勢もまさにそれで、「自分の中では圧倒的に正しい」みたいな意見を振りかざすのがサバイバルの方法として浸透してきているので、私たち以下の世代は客観的事実の誤りに関してはむしろ寛容、ムカつくものに関しては制裁の手段を選ばない、もしくは即拒絶の傾向が強まってきているのではないかと思う。post-truthはそうした時勢のなかで起こるべくして起こった事態だったと解釈している。

 

前置きが長くなったが、今は個人的な興味として、post-truthアール・ブリュットの文脈が交差する地点を探している。アール・ブリュットとは「生の芸術」、正規の美術教育を受けていない芸術家による創作と定義されることが多く、「アウトサイダーアート」とも呼ばれる芸術分野である。

さっきから話の飛躍がひどいが、なんでこんなことを言い出すかというと、この時代を生み出した自己多元化とアール・ブリュットの新定義に、ある共通点を見つけたからだ。

 

アールブリュットの新定義

 

それは「自分の内と外にあるリアリティーを等しく認めること」である。

 

昨年2月の「アール・ブリュット国際フォーラム(滋賀県)」で仏・ナントのリュー・ユニック館長Patric Gygerがアール・ブリュットに対して提示したこの新定義に、かなりビビッときて客席で静かにガッツポーズしたのを覚えている。アウトサイダーアート的局面だけが語られることの多いこのフィールドに風穴が空いたようで嬉しかったのだ。というのも、私はアール・ブリュットに恋敗れた女だからである。わかりやすくいうと「大好きなアール・ブリュットの系譜に乗りたくても乗せてもらえない芸術家の卵」である。入れなかった世界への執着というのは得てして長く付きまとうものだ。

兵庫県立美術館で2012年に開催された展覧会

「解剖と変容-プルニー&ゼマーンコヴァー チェコ・アールブリュットの巨匠-」

で、当時18歳の私はとにかく作品の迫力に圧倒された。この人たちのいる世界に行きたいと強く思って美大受験をしたが、実際芸術の世界に飛び込んでみるとなんとなく高くて厚い壁が建っていて、門を開ける鍵を自分で捨ててしまっていたことに後から気づいた。私は正規の美術教育をがっつり受けてしまっていたのだった。とはいえ受けていなければ同じくらい好きな語学をやっていただろうし、人生はそれほど単純じゃないのだった。とりあえず悔しさをロマンティサイズして、執着を興味に作り変えた。力技である。

 

すっかり話がそれたが、こうして書きながらいろいろ考えた結果「自己の多元化が進んだ今、他者のリアリティーは重くなっているのか、あるいは軽くなっているのか?」という問いに行き着いた。

post-truthで見られるように「客観的事実」と「自分だけのリアリティー」の力関係に変化が訪れている今、芸術にとってもこれは深刻な問いなんじゃないかと思う。アール・ブリュットが「自分だけのリアリティー」を生々しくプレゼンテーションする(作者はそのつもりがないことも多いけれど)芸術であり、自分はそこに強く反応したのだという論を持つとすれば、果たしてその強度はこれから高まっていくのだろうか。

個人的には、様々な価値観を備えた並行世界への適応能力が高まる一方で、自分の理解を超える他者のリアリティーを受け止める能力は全体的に下がっていくような気がする。「他者のリアリティー」なんてのも、たくさんあるうちの一つにしかすぎないかもしれないし。